メモ帳

だからメモ帳だと言ってるだろう


 僕を覗き込むそれが見える。
 ジー、と不快な音を立てるブラウン管のそれから、ゴウゴウと耳障りな音を吐き出す空調の隙間から、黒い油で汚れた床とベッドの隙間から、僕はそれを覗き込んでいた。
「もう見るのをやめろ」
 既に割れてしまって、断片の断片さえも粉々にひび割れた鏡に木片を投げつける。
 乾いてひび割れた指先と唇から血が滲んで、空調の耳障りで断続的な音と、ブラウン管が放映し続ける砂嵐の乾いた音が頭の中に響く。
 声はない。
 声はすでにどこにもない。
 やれ。
 やれ。
 やれ。
 いないはずのそいつが俺に行動を迫る。
 無音が耳を、鼓膜を食い破るほどに煩く、銅鑼やシンバルのように吐き気を催す轟音が頭の中を支配して、油と血で斑らに汚れた指先は、震えるよりも先に感覚を喪失して聞こえない声を吐き出す。
 窓の外は白い。
 そこには子供たちがいて、子供たちは笑顔を浮かべている。
 保育園の青い制服をみんなが来て、肩からは橙色のバッグをぶら下げて、首から上を笑顔の吐瀉物に浸して、一定の距離を、一定の路面を前進し続ける。
 それは30時間続いた。
 30時間続いて、それからまた30時間続いた。
 気が狂ったかのように壁に腕を打ち付けた。
 僕は壁に星座を書いた。
 垂直に、方向を変えて、点を線で埋め尽くすように星を書いて、星は瞬く間に白かった壁を赤色で多い尽くした。
 そこには文字が書かれていた。
 書いた覚えの無い文字で、そこには自分しか知らない秘密が書かれていた。
 半狂乱になって、その上から星座を覆い尽くすように書く。
 同じ点を往復した線は、さらに分厚く、一本の線を無限に集めて、無限に集められた線は面積を持ち、白い壁をただ只管に赤く染めていった。
 金属音がした。
 何も無かったかのようにまだ空調はゴウゴウと金切り声を上げて、ブラウン管は赤と青と白の発色で外の世界を映し続ける。
 ヨーロッパに広がる沃野。
 広大で、何千年もの間広がり続けて、何千年もの間、何億という人間が土の中に潜っていった長閑な沃野の破片。
 狂ったようになり続ける頭の中の銅鑼やシンバルなんて、もう耳に入らないくらいに、そのブラウン管の中の光景に僕は見入った。
「こんにちは」
 規則正しく幼児達が並ぶ。
 五歳か六歳の、白人の子供たち。しかしその顔のどれにも知性は感じない。
 手と足は奇妙に長く、均整の取れた体型の子供はその中に一人もいない。
「僕たちは、外の世界から着ました」
 甲高い声が響く。
 これは子供の声などではない。
 第一、口が開いていなかった。どの子供も、まったく口というものが開いていない。
 よく見るとどこかノッペラとしていて、最初に見たときには取り立てて凹凸を感じた筈の鼻や目も、過剰なほどに塗りたくられた連続性が、凹凸の存在を埋めるようにそこにはただあった。
 僕はそれを見て怖くなった。
 ブラウン管の中で、草原の上で、灰色の空の下で、子供たちが動く。
 表情は変わらない。
 不釣合いに伸びた手や足を、彼らは動かす。
 地面は動かない。
 そこにはもはや違和感しかなかった。
 その瞬間、ブラウン管は音を立てて途切れた。
 黒い画面が映る。またこの繰り返しだ。30時間前にも同じことがあった。
 窓の外には幼児達が青い服を着て保育園へと向かう。
 橙色の鞄を肩から提げ、不釣合いなほどに伸びた足と手を動かしながら道路の向こう側に向かって歩を進める。
 足は動く、道路は動かない。幼児は動く、大きさは変わらない。
 僕はベッドから降りて冷蔵庫に手をやった。
 太陽は既に昇りきってしまい、部屋の中は薄暗くて灰色の遮光カーテンは過ぎ去った時間を感じさせるように太陽の光で焼け切れてしまっている。
 脚の裏を切って、血が流れ始める。
 痛覚は無い。足の親指に刺さった硝子の五センチほどの欠片を引き抜くと、中から絵の具が噴出して零れた。
 フローリングを満たすように挽かれた油に赤い色が混じる。
 パチ、パチとブラウン管から音がした。ゴウゴウと空調が重苦しいほどに低い音を立て、ベッドから巻き上がった埃が太陽の光によって可視化された光景はまるで昇っていく魂のように見えて際立っている。
 複数の瞳が見つめている。
 まるで蜻蛉のように、昆虫のような複眼が、僕は見つめているのを感じる。
 冷蔵庫の中に入っていたのは、その瞳だった。
 オレンジ色のほのかな光が冷蔵庫の中から漏れ出している。
 つみ上がった真空パック、フローリングに散らかった黒い油、また砂嵐を映しはじめたブラウン管。
 そのひとつを取り出して、蓋を開けてみた。
 蓋は水色で、容器は透明で、中は、瞳で溢れていた。
 指先でそれを摘んだ。
 それは水気を含んでいて、乾燥し切った指先に鋭利な痛覚を呼びさます。
 瞳はキラキラとしていた。
 太陽の光を思いっきり吸い込んだかのように、暖かい色をしていて、茶色に薄暗い部屋の中でも、少しだけ白色の輝きを放っているように見えた。
 僕はそれを二つ取り出して、床とベッドの隙間にひとつ、通気孔の中にひとつ放り込んだ。
 バキバキと砕ける音がして、窓の外ではまた朝の挨拶の声が聞こえる。
 僕は起き上がって、ベッドからまた降りた。
 ベッドから起き上がってすることは、カーテンを開けることと、また違う瞳に見つめられること。
 そこではブラウン管がジーと断続的に不連続で不愉快な音を吐き出し続けて、また空調がガンガンと何かを叩きつけるような音を吐き出している。
 僕は息を大きく吸い込んで、そして叫んだ。
「おはよう!」